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日々の仕事や雑事に追われていると、ふと、これでいいのだろうかと思うことがある。それは「なんのために生きているのか」という、死ぬまで続く永遠の命題である。
死なない理由
生きる理由を考える人は多いが、死なない理由を考える人は少ない。個人的には後者をこそ、もっと真剣に考えるべきである。
余暇というものは、仕事が忙しいひとには思いがけない贈物のようにたのしいものであるが、生活全体が余暇になってしまったひとにとっては倦怠と苦痛でしかない。
近年の私の生きる態度は、「生きてやっている」ということである。四十路を前にして思うのは、この世は艱難辛苦に耐えて歯を食いしばって生きるまでには値しないということだ。
だからこそ、テキトーに、まあまあ笑っていられる内は、「死なないでやっている」。ゆえに、何かあったら迷わず死ぬ。
生きている意味があること
人生は無意味である。しかし人間、本当に無意味では生きられないものだ。たとえば強制収容所などの絶望的状況の中でも、人間は意味さえあれば生きられるというのは様々な史実の示すところである。
「生きがい」という言葉は、それに該当する単語が欧米の言語にはなく、〈いかにも日本語らしいあいまいさと、それゆえの余韻とふくらみがある
オルテガのいうとおり、人間の生はそもそも「根本的な孤独」なのであって、愛はこの「二つの孤独を一つに融合しようという試み」なのであるから、愛はまず互いの心の世界を知ること、理解することへの努力から出発すべきものなのであろう。”
暇つぶしの人生
人生とは暇という名の大きな穴なのだと、私は思う。
カミュのいう通り、「退屈な平和」は犯罪や戦争の危険をもはらんでいる。かりに平和がつづき、オートメイションが発達し、休日がふえるならば、よほどの工夫をしないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。
私たちは幸か不幸か現世のなかで自分の居どころをあたえられ、毎日のつとめや責任を負わされ、ひとや物事から一応必要とされて忙しく暮しており、そのおかげでこの虚無を、この「空」を、なんとか浅くまぎらしている。
その穴に、仕事なり、恋愛なり、趣味なり、とにかくはあらゆるものを放り込んで埋める。それが我々の人生で、つまり、人生の究極の目的は「暇つぶし」なのである。