クラシック批評こてんぱん (鈴木 淳史/洋泉社)

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評価はともかく、七夕らしいです。願いごと?かなうといいですね。とりあえず、ヒロシマは一日中雨が降ったり止んだり、ろくでもない天気です。夜にいたって曇りになったので、ぼくはランニングをしました。いや、普通にブログになるから本の話を。

タイトルの通り、クラシック音楽批評の本。別にクラシックに興味があるわけではない。美術のリテラシーとかいう本を読んでいると、その巻末にアートへの理解を深めるうえでおすすめの本が10冊くらい紹介されていたので、素直にすすめられて買った本である。

クラシックのことはよくわからないが、豊富な引用をもとに、そもそも批評とはなんぞや?というのがおぼろげながらわかった気がする。あまり内容の記憶がないのだが、いま見直してみると、驚くほどドッグイヤーが多い。よい本だったのだろうか。

以下本書より引用。

アメリカの批評家ケネス・バークが「言語というものはわれわれと非言語の世界を結合するものでありながら、同時にわれわれを非言語の世界から隔てる」と述べている

演奏会批評よりもディスク批評のほうが興味深く読めることが多い〜中略〜モノを介したほうが批評対象と適度な距離が保てるということなのだ。

人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。〜中略〜批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!(小林秀雄「様々なる意匠」1929)

つまり、批評とは作品を語るものではなく、その作品を媒介として自己を語る作品だということである。

谷崎潤一郎が『文章読本』で言っているように、「鯛のうまみを味わうのに、鯛という魚を科学的に分析しても仕方ない」のだ。

『2ちゃんねる』の独特な点は、匿名性が保障されているばかりか、ほとんど全員同じハンドルネームを使っていることだ。クラシック音楽の掲示板では、「名無しの笛の踊り」という名前が一般的であり、どれが同一人物の発言であるかということがまるでわからない。つまり、アイデンティティという概念がまるでないのだ。

名前がない批評は批評ではない。〜中略〜批評には自意識(それをたとえ拒絶しようと)が必要だからだ。個人であることをハナっから放棄する世界に批評はまったく必要ではないからだ。

昭和十年代、この東海の寺の住持だった高僧が、支那事変の慰問に出かけた。彼は説教会場に集められた兵士に、愛国的な演説も、国民の心得も述べなかった。/彼は、「人というものは、ほっといても何れ死ぬものだ。だからいくら殺しても罪になんかなりやしない。いくらでも殺しなさい」と語った。/すると、緊張していた兵士たちの間から穏やかな笑いと嘆声が漏れたと云う。〜中略〜彼は、兵士達の罪悪感を除いてやろうとしたのではないし、救済しようとも試みていない。たしかに兵士達は、敵が殺しても構わない存在であることを識る。だがそれは、自分達も殺されても何の支障もない存在であると認めることだ。そして恐らく、後者の認識の方が、兵士達にとって意義深かったのではないか。/これが批評だ、と、今の私は思っている。

小泉純一郎〜中略〜この内閣総理大臣はけっして嫌いなタイプというわけではない〜中略〜ただ、ドミンゴの歌唱に「最高」とだけ答え、貴乃花の優勝に「感動した!!」と絶叫している報道を見聞きして、このような言動がもてはやされ、規範になるとすれば、もはや批評の役割は終わってんじゃねえかという危惧があるだけだ。

引用終わり。

演奏会批評よりもディスク批評のほうが、モノを介したほうが批評対象と適度な距離が保てるという指摘、同じようなことをフランシスベーコンも言っていた。生身のモデルは生々しすぎるんだとか、なんとか。

よくわからないけれど、きっと芸術ってつながってるんですね(白目)。