アメリカの現代写真 (小久保彰/ちくま文庫)

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まず、この著者、わが母校の九州産業大学の写真学部の教授! こんなすばらしい先生が居たとは! 忍び込んででも学ばせていただけばよかった! 今はどうしているのかと調べてみると、2005年に67歳で永眠。残念無念。

2005年というと、ちょうどぼくが卒業した年、ではなかろうか。いや、よくわからん。忘れた。

さて、本書だが、何故に写真がアートとなりえたか、その変遷が理路整然と、しかし実に平易に書かれている。なんで写真に億の値段がつくの?という単純な疑問を持っているような人に読んでいただきたい。まあ、その答えは載っていないのだが。

ああ、写真っていいなとは思う。写真にしかできない表現がある。国立新美術館でやってるアンドレアス・グルスキーとか、写真云々を超えて、すごくいい。大阪に巡回するそうなので、そのときに行ってみようか、なんて。いや、大阪に友達おらんしな……。ひとりたびか。

以下本書より引用。

(ロバート・フランクの言葉)
「いまならなんだって撮影できる。でも、当時は『ライフ』的写真が全盛だったから、そのほかの方法で撮影するには大変な勇気が必要だった」

ウィノグランドは写真が現実とはちがったものであり、写真を撮るということは、現実を写真に置き換える方法を発見するものだ、と考えている。彼はそれを「写真はナマの現実以上のなにものかでなければならない」といっている。

アーバスは、愛情は理解と誤解の奇妙で不思議なコンビネーションでなりたっている、と定義している~中略~

「人は絵画を理解しようとする。しかし、なぜ人は小鳥の鳴き声をわかろうとしないのか。美しい夜、一輪の花、そして人をとりまくあらゆることがらを、人はなぜ理解しようとしないで、ただひたすら愛するのだろうか」これはピカソの有名な言葉である。このことばのために一般に現代美術は「小鳥の鳴き声を聞くように」接すればよい、理解するものではなく、感じればよいのだ、という考え方がある。~中略~実際には現代美術はこの方法だけでは歯が立たない。ニュー・ウェーヴの写真家のなかにも同じように、感覚だけで受け止めようとしても鑑賞できない作品がある。もっとも、ピカソの発言は、彼の作品を理解しようとして愛そうとしない人々へのアイロニカルなことばなのである。

引用終わり。

こんにち、写真はアートとして認められるようになった。しかしそれでも、絵画よりは一段低いものとして見られているのもまた事実である。

絵画のなかにも、いまだ根強く油彩をその頂点とするようなところがあるようなものである。しかし、そういう見方ほどナンセンスなものは無いような気がする。

絵画も写真も、そして彫刻もインスタレーションも、それは単に表現の手段に過ぎない。見るべきはその手段を通じて現れた結果、つまり表現それ自体だろう。