オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (松方 冬子/中央公論新社)

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私を含め多くの日本人は、鎖国には外国排除、外国人許すまじというような強いイメージを持っていることと思う。しかし本書を読むと、そんな感情的でも単純なものでもなく、あくまでも実利的な政策であったことが理解される。

あの時代の日本は、どうがんばってもイギリスやアメリカが攻めてくればひとたまりもなかったわけで、そう考えると、オランダは日本にとっては国防上どうしても付き合う必要があった。

もちろんオランダにとっては日本の衰亡など眼中になかろうが、日本との独占的な貿易は非常な旨味があった。この奇妙なwin-winの関係が今ではただ「鎖国」と呼ばれるのは、あまりにも実際とかけ離れているような気がするのだが、どうだろう。

江戸時代の日本は「対馬口」で李氏朝鮮と、「薩摩口」で琉球と、「松前口」でアイヌと、「長崎口」でオランダ人や唐人(中国人が主体だが東南アジアの人々も含む)とつながっていた (中略) これらの「口」はあわせて「四つのロ」と呼ばれる (中略) 「四つのロ」を動員して得られる中国情報はとても必要だった。しかし、幕府にとっての重要性からみて、中国の比重は江戸時代後期から幕末にかけて低下していく。代わってロシアを含むヨーロッパやアメリカ合衆国の比重が高まる。長崎以外の三つの「口」はその変化に十分対応できなかった。そのため、長崎が日本の唯一の窓であったという言説が、ある時期生まれた

長崎商館付きの医師として来日したエンゲルベルト・ケンペルが綱吉に拝謁したのは、まさに1690年ごろのことである。ケンペルが描いた日本人の外の世界に対する興味のあり方は、もはや恐れではなく単なる好奇心であった。ちなみに、そのケンペルの著書『日本誌』の序文に、日本を「閉じた国」と書いた一節がある。19世紀に入って、その序文が「鎖国論」という標題で翻訳出版されたとき、「鎖国」という日本語が誕生したのである。

「鎖国」政策で日本人の出国を禁止した結果、日本人からの信頼できる海外情報がなくなった。中国の情勢については他の経路からの情報があったが、幕府がもっとも危険視するヨーロッパ人のアジアでの活動、とくに日本への働きかけの有無を知るには、オランダ人に頼るしかなくなったのである。だが、頼るしかなくなったというのは、日本の絶対権力者である将軍にとっては具合が悪い。だから将軍は、貿易を許可する、ただしカトリックの動きを報告することが条件だ、という形を作ったのである。

その幕府の絶対権力を支えていた御威光の中身が、圧倒的な軍事力だったことが大きいだろう。幕府の御威光は遠く外国まで通用すると、少なくとも一般庶民には信じられていた。ただこの御威光は、たとえば外国船が放った大砲が長崎奉行所の屋根をくずしたという程度のことで傷がつくほどもろいものだった。ペリー艦隊の来航から後、幕府の軍事力がさほどでもないとわかると、人心があっという間に離れたことからもそれは明らかであろう。けれども、自分たちの軍事力が外国に通用しないことを誰よりも良く知っていたのは他ならぬ幕府であった。

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