人にはどれだけの物が必要か—ミニマム生活のすすめ (鈴木 孝夫/中央公論新社)

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著者の主張はよくわかる。よくわかるがなんだか抵抗がある。

人間がこのままの生活を続けていたら、必ず地球は破滅する。少なくとも、世界中の人々が日本のような暮しをすることは”物理的”に不可能である。だからモノを大切にする。ゴミを最小限にする。無駄を出さない。つまり環境負荷を最小限にして生きる。

そのような精神の超絶な体現者である著者は、粗大ゴミ置き場からは使えそうなものを拾い、古紙を自主的に集めて回り、一度我が家に入った紙類は絶対に無駄にはしない。 割り箸は使わない、ビニール袋は洗って何度も使う。モノは極力買わない。

よくわかる。今の我々の生活には無理があるということ主張は、よくわかる。

でも、適当にティッシュを使いまくる自分がいるし、割り箸もふつうに使う、スーパーにマイバッグを持っていったためしはない。

でもまあ、この本を読んで少しだけ、無駄を省こう、とは思った。やたらめったら浪費するのはやめよう、とは思った。それでいいのかもしれない。

以下本書より引用。

毎日三度の食事を十分に食べることが当り前になったのは、日本でも比較的近年のことなのである。第二次世界大戦直後の大都市で、食糧事情が極度に逼迫した何年かは別として、家に米を買うお金がないため、家族みんなが夕食代わりに水を呑んで空腹を押さえながら朝を迎えるといった貧乏物語は、戦前の日本では決して珍しいことではなかった。

要するにすべてが金、金、金の狂った時代となったのだ。人びとの日常生活も食事はグルメ、身に着けるものはブランドの一級品、余ったエネルギーはゴルフにテニス、そして各種の観戦スポーツへの熱狂と、まさに古代ローマやビザンチンの皇帝たちが愚民政策の常套とした「パンとサーカス」の現代版が出現したのである。

以上。

パンとサーカスという言葉の響きでなんとなくわかったような気になっていたが、調べると以下のようなことであった。

【パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリス(西暦60年-130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。パンと見世物ともいう。ガス抜きや愚民政策の例えとしてしばしば用いられている言葉である。】wikipediaより引用。

なるほど。しかし、この金、金、金の時代はほんの少しずつ、少しずつではあるが、過ぎ去ろうとしているような気がする。

実際、今の日本はいままでの人類が誰も経験したことのない境地にある。衣食住足りて、足りて、満ち足りて、その後、である。

その後の精神の虚しさ、満ち足りているのだけれど、しかし、という現代の状況。いわば病理。

今朝、別の本で読んで考えさせられたことがある。我々は、原始の狩猟採集だけをして生活していた人間の100倍のエネルギーを使って生活しているという。

これは、とてつもなく単純で、しかし恐ろしく深い問いだと思う。つまり、我々はその頃より、100倍幸せに、また100倍楽しくなったのか? ということである。

たぶん、現代の日本人でイエスと言える人間は、恐ろしいほどの馬鹿か、いまだに金、金、金を地で行くさもしい人間だろうと思う。

どう考えてもこれからは、満ち足り過ぎて虚しくなった、虚しくなった我々はどう生きるか、ということを考える時ではないか。

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