アート・リテラシー入門—自分の言葉でアートを語る (フィルムアート社 (編集), プラクティカネットワーク (編集)/フィルムアート社)

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対談やらなんやら、いわゆる雑誌的な構成で、あんまり好きじゃないです。

でもまあ、ちょっとは得るものがあったので、まあよしとする。というか、まじでアート関連の本ばっかり読んでる。でも、今こそガリ勉のとき。おでは絶対に現代美術家になるッ。

以下本書より引用。

1952年8月29日にニューヨーク州ウッドストックで行われたときにはタイトルは4分33秒であり、3つの部分の長さは33秒、2分40秒、1分20秒であった。〜中略〜この作品はどんな楽器演奏者の組み合わせによっても演奏できるし、どのような長さで演奏してよい(ジョン・ケージ『4分33秒』の市販楽譜)

ポロックは実にコントロールが良かったという証言がある。ポロックの出身地が西部だから、まるでカーボーイの投げ輪のようにコントロールがよかったという。

言葉はいつもそれが言い表そうとする現実に対して不足しています。もし言いたいことを過不足なく言葉にできたとすれば、どうなるでしょうか。その時点で言葉は尽きてしまうでしょう。言いたいことを言い切れないからこそ、それを何とか言い表そうとして次から次へと豊かに湧き出てくるのが言葉というものなのです。こう考えると、言葉の生まれるおおもとにはひとつの沈黙があることになります。「言葉にできない何か」が存在するのです。

バルザックの小説が基づいていたような、すべての登場人物の心理を見通し、世の中の動きの一切を掌握する全知の神の視点はもはやリアリティを持ちませんでした。これこそが真の世界であって、世界についてのそれ以外の見方は誤っているなどと言い切れる唯一の立場は存在しません。「事実」そのものなどなく(あったとしても、言葉にすることはできず)、さまざまな「ものの見方」だけがあるとこれを言い換えてもよいでしょう。それを踏まえ、シモンは事物が「何であるか」を書くかわりに、その事物が「どのように見えているか」をひたすら描写することでその事物を読者に理解させようとします。

引用終わり

ジョン・ケージの4分33秒はあまりにも有名だが、3つの部分に分かれていたとは知らなかった。これはいつか、誰かしらを口説く時か(まあ、こういう分野を解する女は少なくとも広島には居ないだろうが)、結婚式で流したい。では、次の曲はジョン・ケージの4分33秒です……披露宴会場のざわめきを静かに聴きたい(切実)。

「言葉はいつもそれが言い表そうとする現実に対して不足しています。」ってやつ、確かにまったくその通り。言葉は人間の持ちえる道具の中でもっとも具体的で実体のあるものだが、しかしそれゆえに、絶対的な不足を意識せざるを得ない。

人はみな独立した切り離された個であって、決して胸中を言い尽くすことはできない。しかそれが大前提だとしても、大事なのは、言い尽くせなくともこの人には伝わっているのだと”信じられる”ことだと思う。

結婚など、特にそうだと思う。未来なんて一秒後のことでさえ誰にもわからないにも関わらず、この人となら一生幸せになれると”信じられる”ことが大事なのだと、最近よく思う。

言葉とういものは本来的に隙間だらけだ。しかしその隙間は、信頼や信用、慈しみや愛が入り込むためにあるのだと思っている(もちろん真逆の憎しみや軽蔑や侮蔑も入り込める。とにかくはなんらかの人間的感情)。ばかばかしいロマンチシズムだとも思うが、けっこう真面目にそうだと思っている。

ああ、それにしてもたいがい疲れてきたし飽きてきた。あと一冊、夜も深まって参りましたが、お暇な方はどうぞお付き合いください。