世界がわかる宗教社会学入門 (橋爪 大三郎/筑摩書房)

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これもツイッター発、アマゾンで買った本。

アマゾンは便利だが、古本屋で適当にざっくり買うのもいいよなあ、というか大事だよなあ、とか思う。

さて、宗教のことはよくよく知りたいので買ったが、あまりよくわからなかった。最近、本を読んでいるのか眺めているのかよくわからん。

というかこの本、神奈川の家のトイレからずっと読んでてようやく読み終わったなあ、って、今日のおれはクソの話ばっかりだ。

早速、下記引用。

ドイツでは、現在もルター訳のドイツ語聖書を使っています。なぜルター訳の聖書が今も使われているのかというと、ひとつの理由は、訳がよい。原典の忠実な翻訳です。もうひとつの理由は、ルターのドイツ語訳によって、ドイツ語ができたのです。それまでは方言がたくさんあり、正しいドイツ語がなかった。ルター訳がスペルや文法のスタンダードになった。

ムハンマドは、三位一体説は非合理だと批判した。神の子という観念も批判した。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教より後発ですから、その弱点をコーランはバシバシ指摘している。コーランは論争の書です。逆に聖書には、もちろんイスラム教のことは書いてない。どうしても、論争はイスラム教に有利になりがちです。

ジハードは、戦争に限らず、イスラム教を発展させる努力をいい、その途上で倒れたムスリムには天国が約束されます。

日本人は、復活や輪廻を信じてもいないし、現世中心主義に徹するほど合理的でもないので、なんとなく死後の世界があるような気がしている。未開社会にはよくあるタイプの感覚ですが、文明国にしては素朴すぎます。素朴でも別にいいと思いますが、宗教を信じる世界の人々が、日本人と同じような感覚(死生観)をもっているだろうと勝手に思い込むのだけはやめましょう。

日本の仏教の不思議は、経典を日本語に訳さないで漢文のまま用いたことです。漢文ももとはと言えば翻訳だから、それをさらに日本語に訳してもバチは当たらなかったはずだが、これは奇妙です。その結果、お経といえば「ちんぷんかんぷんで理解できない」ことの代名詞となっています。ひと握りの知識人しかわからな言葉には、社会を動かす力はありません。聖書のルター訳(民衆ドイツ語訳)が宗教改革をうみ出したことを考えれば、親鸞や日蓮が経典を日本語に訳さなかったのは、残念なことでした。

科学がたった400年の歴史しかないのにひきかえ、宗教は数千年の歴史をもち、人類の文明そのものだといってもよい。

引用終わり。

まあ、なるほどなーとは思った。ところどころ、「そんなのは科学的じゃない!」なんて批判はほんとうによく聞くセリフだが、科学とはいったい?というのも確かにある。というか、科学的じゃないから何? 非科学的で何が悪いの? とも思う。

宗教というのは、そもそも人間の死に対する恐れの一番の特効薬としてあり続けたわけだろう。それはつまり人間にとっての幸福を支えるものとしての宗教である。いくら科学的になっても、死への恐怖はいつまでも消えない。むしろ死が科学的に扱われれば扱われるほど、いっそう恐怖は高まってる。科学はいつだって宗教を否定するが、それでしかし、人間は幸福になったのか。どうか。

なんというか、ぼくとしてはごまかしでもなんでも、幸福な気持ちでいられるならそれでいいと思う。そういう意味ではドラッグとか酒だって、一定の価値をもつと思う。そう考えるから、ぼくとしては願わくばいつか宗教を信じられたらいいなと思う。信仰の有無は幸福の是非に直結すると思っている。少なくとも宗教は人間にとって強力な支えとなりうると思う。思うがしかし、”科学的な”ぼくは、何者をも信じることができずにいる。

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