自死という生き方 (須原 一秀/双葉社)

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人生のたかを知り、自然死ではなく自死(自殺)という生き方を選んだ哲学者の本。

享年65歳。腹筋も六つに割れるほどの健康なうえに、快活で明朗だった。

そんな人間が、みずからの人生に区切りをつける。

ふつう、人間なら、良い状態のときは「もうちょっともうちょっと」と生きていたくなるものだろう。しかし、そうしているうちに、身体を悪くしたり、周りの環境が悪化したりもする。

確かにその通りで、どこかで「自分の人生はわかった。けっこう楽しくやったしいろいろあった。もうおしまい」としなければ、十中八九、ボケ老人か寝たきりの生活が待っているだろう(日本人の死に時 参照)。

自分がするかどうかは別として、著者のような意識的な生き方は素直に尊敬の念を覚える。

以下、本書より引用。

「今は悪くはない。まあまあで、かなり良いとも言える。がしかし、それは今までの良かった時を超えるものではない。同等かそれ以下でしかない。今後も、同等かそれ以下でしかない。しかも、最悪なものがこれからやって来ることはほぼ間違いない。かなり確立は高い。しかし直ぐに死ねば、その最悪なことは避けることができる。それは非常に有難い。そのための一瞬の苦痛など大した問題ではない」というのが、ソクラテス、伊丹十三、三島由紀夫に共通した死の直前の快活さの原因だったと思う。

古代インドの大叙事詩マハーバラターには次のように述べられているそうである。
世界のあらゆる驚異のなかで
一番目をみはらせるのは何か?
それは、だれひとり、
まわり中でほかの人たちが死んでいくのを見ても
自分自身が死ぬということを信じないこと

病気は千もあるが、健康はひとつしかない。(ベルネ)

「年をとると、だんだんと月日のたつのが早くなる」とよく言われているが、それは年をとるにしたがって、日々のルーティーンに病的に順応してゆくせいかもしれない。そして、その背景には不特定の将来(仮想無限)が想定されていて、今日一日が特別の意味を持たなくなるせいかもしれない。

宗教に帰依する人は厭世主義者か虚無主義者であり、したがってこの世だけではこの世を生きつづける気にはならないので、無理にこの世意外のものを持ち込んで、なんとか心の安心を得ようとするのである。子供も仕事に張り切っている人も、子育てを楽しんでいる人も、この世以外のものは何も必要ではない。

でもまあ、とりあえず、わたしとしては60歳だな。あと29年、いや、28年半くらいですか。

そのように生きる。

2020年9月19日 追記

むかしむかし書いた自分の文章を読むと、どうして自分に教えられるようなところがある。それは一重に、私がかつての私ではなくなってしまったからだろう。

確かに生きるのは苦しいと思う。そのようなペシミスティックな感情は、今もあるし、この本の著者を尊敬する気持ちも変わるところがない。しかし、それでも生きてみればいいのではないか。

生きれば生きるほど、老いれば老いるほど、ひどいことが起こる確率が上がっていくのは決して悲観的な見方ではなく、事実で否定のしようがない。

実際、私の祖父などは、最後、寝たきりになり、看護婦に肛門に指を突っ込まれ糞を掻き出されながら生き長らえていた。その時、部屋に充満した糞の臭いと言ったら、この世を呪って首を吊るに十分な醜悪さだった。

だから、それでも生きるべきだとは、全然思わない。だが、生きていて、まだ死なない、もう少し生きれる、生きよう、あと一日、というような、ぎりぎりの線を探ってもいいのではないだろうか。

根拠も確信もない。最初にこの本を読んで七年経って、七年歳を取って、七年死に近づいた今は、なんとなく、そんなことを思う。ただ、七年分、私にとって死がリアルになっただけかもしれない。

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