不幸論 (中島義道/PHP研究所)

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タイトルのまんまの本。きわめつけは本の帯で、「幸福なんてしょせん錯覚」。

大丈夫か、著者は中二病では? という気もするが、いやいや確かにその通りだと納得するしかない。

というか、著者と妙に考えや文体が似ている感じが痛い。ああ、おれってばよ……と。

以下引用。

よくよく考えると、だれも幸福ではない。よくよく考えないから、ある人はあるとき幸福であるという錯覚に陥ることができるのだ。

自分の意志ではなく少し前に生まれさせられて、まもなく死んでいく

すべての人がまもなく死んでしまうという不条理は、私がまもなく死んでしまうという不条理にいささかも影響を及ぼさない。ということは、各人は究極的にはその不幸をひとりで引き受けるしかないということである。

山田洋次監督の「寅さんシリーズ」はわが国では大ヒットしたが、私の大嫌いな映画の一つである。不気味な感じすら漂う。みんな寅さんのことを思って、のべつ幕なしの集団的嘘が画面一杯にゴキブリのようにはい回っているからである。

私は他人をーーいかなる他人でもーーある程度傷つけても、悲しませても、苦しめてもいいと思っている。いや、他人をある程度傷つけ、悲しませ、苦しませることなしには、その人と真摯に付き合うことはできないと思っている。ということは、自分自身も他人から相当程度苦しめられても、傷つけられても悲しまされてもしかたないということだ。

私は手当たり次第にまわりの人を軽蔑するのである。いや、軽蔑するまいと思っても、気がつくと軽蔑してしまっている。そういうおまえは何者なのだ、という声が聞こえてきても、どうすることもできない。

死はわれわれにとって何ものでもない〜中略〜なぜかといえば、われわれが存在する限り死は現に存在せず、死が現に存在するときには、もはやわれわれは存在しないからである。

引用終わり。

世の中には二種類の人がいると思う。ほんとうに死のことなんか誰かの葬式のときにくらいしか考えない人と、毎日のように考える人の二種類である。

ぼくが思うに、いわゆる深いことを言う人は後者に決まっていると思う。

というか、死のことを考えもしないのに深いこととか含蓄のあることなど言えるわけがない。

死を思えばこそ、自分の存在や不条理、あらゆることの儚さ馬鹿馬鹿しさが、絶対的な鮮明さで立ち現れてくるのだ。

深いことなんていうのは、その光景というか感覚を見れば、溢れるように出てくるものなのだ。

というわけで、馬鹿は死ぬまで馬鹿だと思う。死を考えない、考えられない奴は馬鹿。でも、絶対に自分よりは幸せだと思う。

ぼくはどうあがいても心からは幸せにはなれないのだろうと思う。でもそんな自分が好き。ついでに馬鹿を見下すのも好き。

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