恐山 死者のいる場所 (南直哉/新潮社)

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8割がたは、なに言ってんだこのなまぐさ坊主はという感じだったが、最後のあたりから妙な説得力と真理性を感じ、あれ、なかなかいい本じゃないか、という結論にいたる。

以下本文より引用。

この世に自分で自分の生きる意味や価値がわかる人間はいません。わかるわけがない。だって、人は皆、何の意味も価値もなく、ただ、ボロッとこの世に生まれてくるだけだからです。

私は常々、死と死者よりも、死者と生者の方が近いと思っています。なぜなら、死者にはすでに死は無く(死者はもう死にません)、生者とは、死につつある者に他ならないからです。

(以下、ものすごく長いけど、はからずも電車内で泣いたので頑張って引用)

忘れ難い人がいる。年の頃なら20才そこそこ、頭を金色に染めた、言うところの「ヤンキー」のような若者である。

その時、彼は実に気のなさそうな様子で、肩を心持ち前後に揺らしながら、ガニマタで受付にやってきた。こういう類いの人物は一人で現れることはまずないので、最初は何事かと思った。

「あの、塔婆の供養……したいんっすけど」

「ああ、そうですか……」

私は申込書を出し、簡単な住所と名前を書いてもらった。気仙沼、とあった。

「で、ここはどう書くんすか?」

「ご先祖様か、亡くなられた方の、できれば戒名、あるいは俗名を書いて下さい」

「あ、戒名ね、わかるんだな、これが」

彼はズボンのポケットから、クシャクシャの紙切れを出した。その戒名は女性と、生まれてこなかった子供を意味していた。

「女房と子供なんす」

書きながら、彼は話した。

自分が仙台で働いているとき、ある女性と恋に落ち、結婚した。しばらくして彼女は妊娠、順調に臨月を迎えた。どこで出産するか。彼は仙台もよいが、やはり近くの病院がよかろうと、彼女の実家のある気仙沼に送り出したのである。

予定日が近づくにつれ、彼は毎日吉報を待ったであろう。そして、3月11日、いきなり津波は彼女と生まれて来るはずだった子供を飲み込んだのだ。

彼はそれを、申込書に顔を伏せたまま「◯◯っす」口調で話した。私は相槌も打たなかったと思う。

「これでいいっすか?」

「……、ええ」

私はようやく、そう言った。

「で、どうすればいいんすか?」

「11時から法要なので、上の地蔵殿というお堂まで行って、お待ちください」

「あ、そうすか、じゃ、どうも」

彼はコンビニで買い物した後と変わらぬ様子で、スタスタと受付を出て行った。

後姿を呆然と 見ながら、私はふと、彼はいま、悲しくないのだと思った。悲しめないのだろうと。悲しむためには何を失ったのか、その意味と重みを実感しなければならない。それは実際には、思い出すことなのである。彼が彼女と出会い、結ばれ、妊娠を喜び合ったその日々の、その二人で分かちあった経験を心から思い出せない限り、彼は悲しみようがないだろう。

引用終わり。

ほんとうながながと引用したが、まず、ヤンキーと悲しみ、もしくは涙という遠い事物の対比が鮮やかで美しい。

そして確かに、わけのわからないことでは、人は泣けないだろう。いくら悲しい映画でも、始まってすぐには泣けない。ある程度の量があって、時間があって、流れがあって、はじめて感情がスクリーンの向こう側へと及び、思わず涙する。

しかし、このヤンキーの悲しさときたら、想像するだに圧倒される。涙という物質が出なくとも、嗚咽を漏らさなくとも、突き抜けた悲しさというのがあるんだよなあと、思って、泣いた。

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