戦後史開封 (「戦後史開封」取材班/産経新聞社)

書籍戦後史開封(「戦後史開封」取材班/産経新聞社)」の表紙画像

購入価格:439

評価:

この記事は約2分20秒で読めます

ただただ圧巻。辞書並の厚さもそうだが、今日に至るまでに、これほどさまざまことがあったのだという歴史の重みを感じる。しかもどの章も、新聞記者の鏡というべきか、一貫して率直・簡潔でわかりやすい。ページをめくるごとに深い感慨を味わえること請け合いの一冊。

昭和四十七年二月、武装した連合赤軍のメンバー五人が長野県軽井沢町の別荘に人質をとって立てこもった。「あさま山荘事件」である。 (中略) 各テレビはこぞって現場から中継をしたが、事件の動きが少ないときなど”つなぎ”に、厳寒の山中で機動隊員らが食事する光景を映したりした。その中に一風変わったラーメンがあった。前年九月に日清食品が発売したばかりの「カップヌードル」だった。ロングランのテレビ中継は期せずして、それほど名前が売れていなかったこのカップ型ラーメンの PRに役立つことになったのだ。

発疹チフスまん延、DDT散布(昭和21年)
カタニス氏が東京で恐れを抱いた発疹チフスは、病原菌を媒介する衣服や髪の毛のシラミが急増したため、昭和20年から21年にかけて日本中にまん延、21年の患者は3万人を超えた。米軍兵士への感染を危ぐしたGHQ公衆衛生福祉局は21年3月、シラミのほかノミ、蚊、ハエなどの害虫を駆除するため、トイレや人体に有機塩素系殺虫剤であるDDTの散布を始めた。その効果で翌22年には、発疹チフスの患者は1000人台に激減した。公衆衛生福祉局ではこのほか、結核予防のためBCG接種の義務化などを次々打ち出し、”DDT改革”とも呼ばれた。しかし、強制的に頭から白い粉のDDTをかけられることで、えもいわれぬ屈辱を感じた日本人も多かった。散布は30年代まで続けられたが、その後は環境汚染防止のため禁止されている。

初代ミス日本(昭和25年)
昭和25年4月22日、第一回「ミス日本」コンテストの最終選考会が東京で開かれた。主催は読売新聞社などで、「年齢26歳以下、身長5尺(約150センチ)〜5尺4寸(約162センチ)」といったところが応募条件。まず全国十二の都市ごとに”ミス”を決め、そのコンテストでミス日本を決める方式だった。審査員は高橋誠一郎元文相、日本画の伊東深水画伯、作家の吉川英治氏らが務め、最終選考会の結果、ミス京都の山本富士子さんが、初代のミス日本に選ばれた。

終戦直後の1946年のこの一件など、興味深いことこの上ない。

アーニー・パイル劇場では、日本のソロバンとアメリカの電気計算機とのコンテストが行われた。足し算から掛け算、割り算までどちらが早く、正確に答えを出すか、だれが主催したコンテストか知らないが、競争なんだ。劇場にはGIがいっぱい詰めかけ、息をのんでこの日米試合の成り行きを見つめていた」「僕自身も含めて米国側の観客はみな、米軍兵士が操る計算機が間違いなく勝つと思っていたのだが、 実際にはなんと日本のソロバンが勝ってしまったので、びっくりした。負けた米側の兵士は罰としてソロバンの名手の日本人をリキシャ(人力車)乗せて、劇場の周りを一周することになった。このコンテストの結果は米軍の新聞『スターズ・アンド・ス トライプス』にも詳しく報道されたんだ」

記事カテゴリー: 読書