サウンド・エシックス—これからの「音楽文化論」入門 (小沼 純一/平凡社)

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いろいろあっていろいろ思ってていろいろ落ち込んでたりして、とにかくはもういろいろおひさしぶりです。

そんなこんなで読了本が4冊ほど溜まっていますが、あまり元気ではないので、とりあえず一冊だけ更新しておく。

この本も、なんかアートの本でオススメされていたので、素直に買ってみた。サウンドと書いてるくらいだから音楽なのだが、しかし音楽のことはよくわからん。

以下本書より引用。

かつて、わらべうたが或る村で流行っても、大きな川があったらその向こう側には届かない。向こう岸ではまた別のわらべうたが独立に存在している。そんなふうに小泉文夫は言い、しかし橋がしっかりと建設され、ましてや電車や飛行機が発達して、都心の或る小学校で生まれたわらべうたが翌日には九州に伝わってしまうこともあることを指摘したことがあります。

(普通だとここで話をする老人は聴いている子供たちに、たった三口でカジキを一匹食べてしまった大魚は、七匹のカジキ全部を食べるのに何回口を開いたか、という算数の質問を出して、答えが出るのを待つ。掛け算の九九などというものを覚えてしまったわれわれは、本来なかなか面倒なこの種の計算をわいわい騒ぎながらやるという楽しみを予め奪われている。子供たちはそのあたりの石や貝殻を拾ってきて、十七夜の月の光でそれを並べて数え、正しい答えを老いた語り部に伝えてようやく話の続きをせがむことができる。たまには、ただの貝殻と思ったものに実はヤドカリが入っていて、それが計算の途中で逃げてしまったために正しい答えに行き着けないという不運な子も出てくる。)——池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』第三章より。

引用終わり。

大魚がカジキを食べるという話、本文ではなくまったくの後書きで著者が「いま一冊の本を持ち歩いていて……」と言って、なんとなく紹介されていた文なのだが、妙に気になった。

「〜本来なかなか面倒なこの種の計算をわいわい騒ぎながらやるという楽しみを”予め奪われている”。」ああ、なるほどなと思う。

楽しむ云々以前に、あらかじめうばわれている。

なんか、そういうことって、恐ろしくたくさんある気がする。というか、むしろそんなことばっかりで、それで、この世がつまらなくなってたりする、というか、このいま瞬間も、これからも、いっそう加速度的にすべてがつまらなくっていく、ような気がする。いや、かなり。