時間は存在しない (カルロ・ロヴェッリ (著), 冨永 星 (翻訳)/NHK出版)

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現代、誰でも時間のことを考えない日はない。たとえひどい二日酔いで一日を溶かしてしまった日でも、ベッドに沈んだ10時間なり20時間なりを思い、考える。

同じ時間を生きていない

我々はみな同じ時代を生きているとは言えるかもしれないが、同じ時間を生きているとは言えない。むろん、厳密に言えば、の話。

時間の流れは、山では速く、低地では遅い。(中略) 専用の実験室に据えられた時計を使うと、数センチの高さの差によって生じる時間の減速も検出できる。床に置いた時計のほうが、卓上の時計よりほんの少し時間の刻みが遅いのである。

ロマンの話ではなく、科学の話。しかし、疑問が生じる。では、どちらが正しい、真の時間なのか? 答えはどちらも正しくて、どちらも正しくない

ちょうど、英ポンドの貨幣価値を米ドルで表した値と、米ドルの貨幣価値を英ポンドで表した値のどちらがリアルかと尋ねるようなもので、「ほんとうの価値」は存在しない。 (中略) 同様に「本物の時間」も存在しない。異なる時計が実際に指している二つの時間、互いに対して変化する二つの時間があるだけで、どちらが本物に近いわけでもない。いや。二つどころか、たくさんの時間がある。空間の各点に、異なる時間が存在する。唯一無二の時間ではなく、無数の時間があるのだ。

時間。この不可思議なるもの。よく詩的な表現で、同じ月を見ているというが、光に速さがある以上、同じ地球上といえど見る地点が違えばまったく同じ光を見ることはできないはずだ。

たとえ二人が抱き合ってその月を見ていたとしても、やはりそれぞれの眼に入る光は異なるのだ。

人はひとりで生まれ、ひとりで死んでゆく。いくら愛し合っても同床異夢。まぐわって眠っても、同じ夢さえ見ることができない。

時間の本質は出来事

映画なんかで、時間が止まり、その一切が停止した空間を動き回るシーンがある。あれはモノ的な時間の処理だと言える。しかし現実の時間は、出来事それ自体であるらしい。

この世界を出来事、過程の集まりと見ると、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。これが、相対性理論と両立し得る唯一の方法なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。
物と出来事の違い、それは前者がどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。

出来事が時間であるというのは、案外に我々の実感に近い気がする。

本当に何もしないで手持ち無沙汰でいるような時、時間はしばしば遅滞する。これは、時間の本質である出来事がないために、半ば時間が存在しない状態だと言えるのではないだろうか。

時間はリアルか観念か

いつか科学が時間の本質を解き明かすだろう。だからといって、我々人間の人生の何が変わるわけでもない。やはり未来永劫、生まれては死ぬ、それが人間の定めである。

インドの叙事詩『マハーバーラタ』において、この世の最大の謎は何かを問うくだりがある。曰く、

「日々無数の人々が死んでいるのに、それ以外の人はまるで自分が不死であるかのように生きていること」

現代美術の巨匠というか生みの親とも言えるマルセル・デュシャンの墓碑に刻まれている「されど、死ぬのはいつも他人」という言葉を連想せざるを得ない。

とまれ、ものの本によれば、そう遠くない未来、我々は不死(immortal)はではないが非死(ammortal)にはなるという。

人間が物理的な肉体を持つ以上、不死身にはなれないが、老いることがなくなり、事故など不慮の事故で肉体を失わない限り死ぬことがなくなるのである。

その時、我々にとっての時間は大きく変容する。有限の存在から無限の存在になるのだから当然だ。

しかしそれは、我々が人間ではなくなる時でもある。我々は有限な存在であるからこそ人間らしくあれたのであって、無限に延長された人間存在というのは、おそらく石ころと変わらないモノに近くなるのだろうと、私は思う。

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