同じ仕事が1時間13000円になったり3000円になったりする理由

アメリカドルのお札を複数枚、手で広げている画像

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近年、全国で同一労働同一賃金を求める訴えが起こっている。同じ仕事内容にも関わらず、正社員と派遣やアルバイトでは賃金に格差がある。これはおかしいというわけだ。私もそう思う。

値段のつけ方

資本主義経済下では、すべての商品には値段がつけられる。パンやおにぎりから、車や住宅、あるいは人間にも値段がつけられる。そしてそこには相場というものがあり、適正価格というものがある。人は、適正かどうか、つまり公正か不正かに恐ろしく敏感な生き物だ。

安く買いたい

何をおいても、人は良いものをより安く買いたいと思っている。その時、人はしばしば邪悪になり、稀には悪魔に魂を売る者もある。そこで生み出されたのが、派遣だったりアルバイトの仕組みだったりする。

信用できないから安い

資本家の言い分は決まっている。派遣やアルバイトは、正社員と比べて信用できないから安いのは当然だ、と。本当にそうだろうか? 確かに、相対的に見ると無責任な人が多いのは事実かもしれない。しかし、それは時給3000円が半額の1500円に、あるいは750円になるほど信用ならないものなのだろうか? それはさすがに適正でも公正でもないのではないだろうか?

1時間13000円の仕事

私がロサンゼルスで働いていた日系企業の一時間あたりの作業費用は$125(約13000円)であった。それは作業の難易度に関わらず、どんな仕事でもすべて同じ値段である。極端な話、ずぶの素人でもできるだろう、臨時休業のお知らせを一行掲載するだけでも0.25h(15分)で、3250円もかかる

特殊なケースを言っているのではない。実際、この手の細々した雑用的な仕事は少なくなかった。そこで私は常々思っていた。これはどうも正しくないのではないか?

会社の信用と個人の信用

そこでもまた信用の話になる。会社は絶対に納期も守り、不測の自体もカバーしてくれるはずだから、その分の費用が上乗せされるのは当然だ、と。しかし、会社でも納期がずれ込むことはあるし、不測の自体も往々にして起こり得る。この不透明に過ぎる先の読めない時代、ふつうに考えて、会社と個人とで、仕事を発注するリスクが天と地ほども違うものだろうか?

リスクに払うお金

携帯電話を買う時に、自然故障や水没の保証で月額500円というようなサービスがある。そこで人はあれこれ算段する。たとえば1万円の格安携帯に毎月500円は高すぎる。10万円の最新携帯なら妥当かもしれない等。心配すればきりがないが、保険をかけ過ぎるのは考えものだ。概して日本人は保険が好きな国民性だが、過度な保険は逆にリスクである。心配は無限にできるが、財布には限度がある。

不安や不信は高くつく

先の1時間あたりの話で考えれば、個人に頼めば1時間3000円で済むものを、不安で信用できないために1時間あたり10000円を上乗せしていることになる。信用に10000円も上乗せする必要のある重大な仕事など、日常にそうあるものだろうか? 現代のテクノロジーならば、それだけ払えばいっそ核爆弾のミサイル発射ボタン並の信頼度を付与できるだろう。

個々の仕事を過小評価するつもりはない。ただ、私は10年以上、東京、シンガポール、ロサンゼルスなど、世界中のIT企業で働いてきたが、そんな仕事にはついにお目にかかったことがない。

モノが違わない

魚屋や八百屋なんかの伝統的な商売では、しばしば「モノが違う」という。その通りだろうと思う。しかし、WEBの世界は違う。現在、個人で契約できるサーバーやソフトウェアは、食うや食わずのフリーランスのWebデザイナーでも、かたや雲の上のGoogleやFacebookの社員でも、同じものを使っている

WEBはかつての新聞や論壇といった権威と庶民の井戸端会議をごった煮にして、あらゆる領域をフラット化したが、作る側もまた完全にフラット化しているのである。

安かろう良かろうの世界

WEBに関しては、安かろう悪かろうは存在しないに等しい。テクノロジーの進歩は目覚ましい。コンピューターの歴史を考えてみればわかる。つい80年前、一台のコンピューターは277畳分もの大きさで小国家予算並の費用が注ぎ込まれていたが、今やその何千何万倍も高性能なコンピューターが手のひらサイズになり、かつ個人が簡単に手に入れることができるようになった。

WEBの世界に、高いから良いということは有り得ない。むしろ安くて良いことが山ほどある。あなたはいったい何にお金を払っているのか、いま一度考えてみるといいかもしれない。

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